+あの人とともに+





目覚めると同時にふと胸が押し潰されるような感覚に襲われて、心臓があるその辺りの服をぎゅっと掴んだ。

ベッドの横に貼ってあるカレンダーの日付を見て、その奇妙な圧迫感の正体を知る。

この日を迎えるのももう四度目だ。何度経験しても慣れるものではないけれど。



玄関口に出してあった茶色のブーツに足を通し、軽く爪先を叩く。

少し歩くことになるけれど、多分大丈夫だろう。それに何よりも、今日はこの靴で出掛けたかったから。

五年前に買った、殆ど履くことのないその靴は、いまだ草臥れることもなくスッと足に馴染んだ。

ふと、まるであのときから全く時間が経ってないかのような錯覚に陥る。

扉を開くと、まるであのときのように、冬の冷たい風が全身を貫いていって、思わず首を竦めた。







「……っ」

外に出た瞬間に冷たい風に煽られて、一瞬息が詰まる。

マフラーを巻いてくればよかったと後悔していると、肩にふわっと何かが掛かる感触。

隣を見ると、あの人が鼻を真っ赤にして笑っていた。







もうとっくの昔に吹っ切れたと思っていたのに、と、意図せず自嘲が漏れた。

人間の感覚的記憶能力というものはなかなかに残酷らしい。

否、どこかで忘れたくないという意識が働いていたのかもしれないけれど。



とりわけ急ぐ必要もないので、よく透き通った空気を肺一杯に吸い込みながら、てくてくと歩いていく。

晴れ上がっているとは言い難い空の下で、歩いている人は私独り。

あのときは、空は遠く綺麗だった。







「冬の空って、何であんなに高いところにあるんだっけ」

昔、確かに誰かに説明してもらった事があるんだけどなぁ、と、あの人は苦笑して。

そうして、ぽつり、呟いた。

「駄目だね、すぐに忘れちゃう。暫く気に掛けなかったら、すぐに」







遠く高い空は、今でも私の目に焼き付いて離れない。

雲が沢山ある空に手を伸ばすと、くらりと眩暈がした。

あのときと較べたらこんなに近く感じるのに、それでも決して届くことは無い。

どうして、こんなにも遠いのだろう。



目的の建物に辿り着き、私は重いドアを押す。

カランコロン、と、小気味良い音を立てて、そのドアは内側に開いた。

ふわり、と、珈琲の匂いが鼻腔をくすぐる。

私の姿を見留めたマスターが、私をカウンター席へと促してくれた。



「お久し振りです、マスター」

五年前までは足繁く通っていたこの店だけど、あの日を境に丁度一年置きにしか顔を出さなくなってしまった。

あれから、此処に来るのは四度目だ。

「ええ。中々来て頂けなくて淋しい限りです」

そう言う彼に曖昧な微笑みを返して、珈琲をお願いする。

「はい、いつものように彼の前払いで、ですよね?」

珈琲を淹れるマスターの手を何とはなしに眺める。

ふと、彼の手があの人のそれに重なった。







骨ばった手をぎゅっと握り締めると、弱々しく、それでも確かに、あの人は私の手を握り返した。

殆ど開くことの無いあの人の目が、ぴくり、動いた。

どうか、どうか、ずっと。

その願いは、決して届くことはないけれど。

それならせめて、もう少しだけ、

このぬくもりを、感じさせて―――。







珈琲が注がれたカップと共に、包装された小さな箱が目の前に置かれた。

過去三回は綺麗な空色の封筒だったのに、と、小さく首を傾げる。

「私が預かったものはそれが最後です」

マスターが私に告げる。

私は彼に向かってお礼を言って、その包み紙を剥ぐと、小箱と一緒に入っていた一切れの紙が膝の上に落ちた。

『縛りたくはないけど、でも、忘れないでほしいから』

細いペン先で、そう一言だけ書かれた紙を脇に置いて、小箱を開く。

小さな宝石のついた指輪がひとつ、台の上に座っていた。

手にとってまじまじと眺めてみると、その指輪が私の左手人差し指のサイズに合わせられていることが分かった。

人差し指の指輪。

“前向きであれ”と願いを込められたそれを、少しだけ躊躇って、そして指に通す。

ぶかぶかだったけど、それでも、落ちることはないだろう。

この指輪は、ここに在るのが相応しい。

何故か、そんな気がするから。



「ごちそうさまでした」

マスターにそう告げ、席を立つ。

「ありがとうございました」

私の左手薬指に在る指輪を見留めたマスターは、複雑な笑顔で私に応じた。

「近いうちに、今度は自分のお金で、また珈琲をいただきに来ます」

だから、笑顔でそう言ってドアを開けた。

店を出るときに見えたマスターの表情は、やっぱり複雑だったけれど。





++





あの人に縛られて生きていくのなら、それはそれで構わない。


だから、忘れられたくないのなら、私を縛るくらいでいてほしい。


そうすれば私は、ずっとあのぬくもりとともに生きていけるから―――。











+++
あとがきと蛇足的補足。

棗さん宅“FM noise”一周年記念で不肖ながらリク承ったところ、「恋愛モノで」というお言葉を頂戴しました。
出来上がってみればこんな感じに。甘くもなく大して切なくもなくかろうじて恋愛モノと言えるかどうかの瀬戸際。
ですがまぁ、久し振りに短いシリアスものが書けて私は満足です。
棗様、宜しければ受け取ってやって下さい。遅くなりましたが、一周年本当におめでとうございました。

因みにタイトルは私がこの前書いた読書感想文『あの日とともに』から、というのはここだけの話。
結局、大切な人が死んでしまっても、残された人はずっとその人のことを忘れることなく生きていくのでしょう。
それは良かれ悪かれその人のを縛り、力になる。そう信じたいものです。

さて、ここからは本文のどうでもいい補足。
伝えたかったけど伝えきれないかもな部分をこっそり説明。本当に蛇足なので反転にしてみました。

マスターが微妙な表情を浮かべたのは、その指輪の位置の所為ですが。
彼女はその笑顔を、自分がもうその店に現れないと思ったからだと勘違いした、と。
その指輪がマスターの最後の預かりものだった訳ですから。
だから、四年間“あの人”が先払いしてくれていた珈琲を、今度は自分のお金で飲みに来る、と言ったのです、はい。
私の文章力では伝えきれないだろうと思ったので。
いや、本文で何とかしろとかいうのは自分が一番ひしひしと感じてます。申し訳ないです。





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